国立台湾大学医学院附設医院(台湾北部・台北市)は2日、慈善事業への取り組みで知られる俳優の孫越さんが1日午後9時56分、敗血症に伴う多臓器不全で亡くなったことを明らかにした。87歳だった。孫越さんは今年4月上旬、慢性閉塞性肺疾患(COPD)の症状悪化により、台湾大学医学院附設医院へ搬送され、集中治療室で治療を受けていた。
孫越さんは中国大陸の浙江省で生まれ育ち、1949年、中国国民党軍(国民革命軍)と共に台湾へ撤退してきた。陸軍の話劇社(=劇団)で俳優としての才能に目覚めた。銀幕デビューは1962年のこと。映画『白雲故郷』という作品だった。当初は悪役俳優として活躍した。テレビの世界では、陶大偉さん(1942-2012)や張小燕さん(1948-)などと組み、バラエティ番組の司会を担当してコメディ路線に変更。お茶の間に広くその名を知られるようになった。
孫越さんは1981年、テレビの仕事から身を引き、映画の撮影に専念することにした。1983年、虞戡平監督の映画『搭錯車』で主役を演じ、圧倒的な存在感を見せた。年老いた元兵士を演じた孫越さんは、老兵の目を通して台湾社会の底辺で生きる人々の現実を浮き彫りにした。この映画は観客の涙を誘い、圧倒的な興行収入をたたき出した。その演技が評価され、孫越さんは第20回「金馬奨(ゴールデンホース・アワード。中国語映画のアカデミー賞とされる)」の「最佳男主角(=最優秀男優賞)」を受賞した。翌年も映画『老莫的第二個春天』で再び同じ賞にノミネートされた。二連覇を果たすことはできなかったものの、同作品は「最佳劇情片(=最優秀作品賞)」を受賞している。
1983年、孫越さんの人生に転機が訪れた。すでにお茶の間にその名を知られる俳優であり、ユーモアのある人柄が人々に好かれ、順風満帆の日々を送っていた孫越さんは、その年、キリスト教系の雑誌『宇宙光(Cosmic Light)』の依頼を受け、タイ北部の恵まれない人々に物資を届けて支援するという慈善活動「送炭到泰北」に参加した。孫越さんはタイを訪問するための都合をつけるため、寝る間も惜しんで撮影に専念し、その結果、大病を患った。それでも医師の許可を得て、1か月半分の薬と、尿道カテーテル2本を持ってタイ北部を訪れることにした。
タイ北部では、点滴を打たれ、明日をも知れぬ命の子どもを、夜を徹して看病した。医者が肩を落とし、「亡くなりました」と言ったとき、死というものを目の当たりにした孫越さんの胸に様々な思いが去来した。「自分は数十年も安穏とした生活を送ってきた。すべての時間を自分のために費やしてきた」――そう考えた孫越さんは、これからの人生の方向を大きく修正することを決めた。
タイ北部から戻った孫越さんは、さまざまな慈善活動に参加するようになった。同じ年、「金馬奨」の「最佳男主角(=最優秀男優賞)」を受賞してからは、これからは1年の4か月間は映画の仕事をし、8か月間は慈善活動に取り組むとキッパリと宣言した。1989年にはわざわざ記者会見を開催し、今後報酬が生じる仕事は一切引き受けず、40年間働いてきた芸能界から引退し、すべての時間を慈善活動に捧げると宣言した。
孫越さんは「命ある限り、働き続けるのみ」と語ったことがある。1930年生まれの自分にとって、実際にできることは限られているものの、「私はいつも慈善活動のことを考えている。自分のわずかばかりの力で、より多くの人々を安らかで楽しい気持ちにし、むだな傷害が生じるのを避けられたら、と思うだけだ」と話していた。
「善行」と「被害低減(ハーム・リダクション)」の考えから、孫越さんは37年続けてきたタバコを止めた。16歳で初めてタバコを吸って以来、健康に良くないとは知りつつも、どうしても止められずにいた。20年間ずっと禁煙を考えていたが、そのままになっていたのだ。1984年、台湾南部・高雄で撮影をしているときのことだった。撮影の合間の休憩時間、タバコに火をつけようとしていた孫越さんのそばを、学生たちが通り過ぎていった。そのとき孫越さんの脳内に突然、「孫越、喫煙は人体に有害だ。それでも吸うのか?」という声が響いた。その声で孫越さんは突然目が覚めた。「わたしには、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。わたしには、すべてのことが許されている。しかし、わたしは何事にも支配されはしない」――孫越さんは聖書の言葉を思い出した。タバコを吸うのは個人の自由だ。しかし同時に、他人を傷つけることにもなる。こうして孫越さんはタバコを断ち切った。そればかりか、煙害撲滅を目指す民間団体「財団法人董氏基金会(John Tung Foundation)」(台湾北部・台北市)の終身ボランティアとなり、タバコの害を防ぐための法制化に奔走し、自身の経験をもとに、喫煙者に禁煙を進める活動に力を入れた。
孫越さんの名前は、こうしてボランティアの代名詞となった。禁煙運動の最前線に立ち、煙害撲滅のために声を上げた。また、自ら献血を行い、臓器提供を呼び掛け、緩和ケアの普及を訴えた。台湾各地の刑務所を訪れては受刑者を励まし、遠くアフリカまで足を運んでは、餓えに苦しむ人々を助けた。慈善活動への取り組みは、とどまるところを知らなかった。
2007年、孫越さんに肺腺がんが見つかった。術後順調に回復した孫越さんは、以前にも増して命の大切さを訴えるようになった。2010年、孫越さんは再び舞台に上がった。同年行われた第47回「金馬奨」で「特別貢献奨」を授与されたのだ。孫越さんは、「芸能界を離れた私は、いわば脱走兵のようなもの。脱走兵がこのような賞を頂けるとは、一体どういうことなのだろうか」と自嘲気味にコメントした。そして受け取ったトロフィーを高く掲げながら、「この賞を私が頂いたのは、芸能界の後輩たちに対し、金を稼いで知名度を高めるだけでなく、慈善事業に身を捧げるよう奨励するためだろう」と締めくくった。孫越さんは大きな声で感謝の言葉を伝え、右手で挙手の敬礼をし、身を翻してステージを降りていった。それはまるで、あとに続く後輩たちに対し、自分の後に続いて慈善活動に加わり、自分のために、そして助けを必要としている人々のために生きるよう呼びかけるかのようだった。
孫越さんはかつて、自分が最も憧れる俳優として、英国のコメディアンであるチャップリンの名を挙げたことがある。しかし孫越さんは芸能人生の最盛期に、そこから身を引き、慈善活動に身を捧げることを決めた。それから35年間、身をもって禁煙に成功しただけでなく、明るく爽やかな笑い声で、前向きなエネルギーを拡散し続けた。フレンドリーで親切なイメージを与える彼は、俳優とは別のやり方で、よりストレートな方法で人々に永遠の楽しみを与えようとしたのだ。
「慈善活動に捧げたこの30年余りを振り返って、自分にどんな言葉を掛けたいか」と尋ねられた孫越さんは、「無怨無悔(不満も後悔もない)」と簡潔に答えた。これこそ、慈善活動に捧げた彼の半生を表現するのに最もふさわしい言葉ではないだろうか。